「おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます、伊藤先輩!」
「あれ?どうしたんですか?調子悪いんですか?」
「伊藤、腰でも痛めたのか?」


柔らかい初夏の陽光が壁一面に広がる窓から室内に朝の気配を降り注ぐ。
ここ鈴菱商事本社は、高層ビルの多いこの街でも有数の最新鋭のインテリジェントビル。その高さ、その機能とも群を抜いている。
空調の行き届いたビルの中は、外の蒸し暑さからは無縁で頗る快適。
今日は月曜日で、昨日まで眠っていたこのオフィスも早々に出勤してくる社員たちで活気付いていた。

「あっ、おはよう!大丈夫だよ」
夕べは、久しぶりの休日で自分を手放そうとしなかった七条のおかげで、少しふらふらしながら歩いている啓太に
後輩や同僚たちが、大丈夫か?と心配そうな声をかける。
ほんとのことなんか言えないよな…そう心の中で呟きながら、そっと歩いて自分のデスクまで、ようやくたどり着き、よいしょと腰掛けた。

「えっと、井上君!今日の予定どうなってたっけ」
そう言って、啓太は後輩の方を振り向いた。

「えーーと今日は、ワイエム商事へこの間の契約の件でアポ入れときましたよ」
「あ、あれかぁーー。ありがとう」
ニッコリと花のように笑う啓太にどぎまぎしながら、その後直ぐに後輩は小声で眉を顰めた。

「気をつけてくださいよ」、
「えっ?何が?」
「ワイエム商事の営業部長の高橋さん、伊藤先輩のこと狙ってますよ」
真顔で、それは冗談とは思えない表情で。それをみた啓太は少し戸惑う。

「何?それ」
「だって、もっぱらの評判ですよ。鈴菱の伊藤君は、可愛いからってあちこちで言いまわってるって」
後輩は、声を落としてそう言った。するとそれを隣で聞いていた別の同僚が同じように

「あっ、それ俺も聞いたよ!でも、俺が聞いたのは、AIMコーポレーションの高橋専務が伊藤くんにベタぼれだって」
「それ聞いたことある!」 あちこちで、俺も!私も!と声が上がる。

「ほんと伊藤先輩、人気あるから!」
「そんなことないよ。それに俺、男だし」
頭をブンブン振る啓太に、その場に居合わせるみんなが
「気をつけろ!」と声を合わせる。

少し困った顔で啓太は、苦笑いを浮かべた。

「男だとか女だとかこの際関係ないぞ」
「そうそう!関係ない・・っていうか、伊藤先輩ならそんなの関係ないですよ」
「でも、社内でも伊藤を狙ってるやつ多いよな」
「うんうん!」
「そうだよな。ほら一番ご執心なのが」
あの人だよね…と、みんなが顔を見合わせて頷きあう。



「誰が人気あるって!?」
その時、不意にみんな背後から聞き覚えあのある声が聞こえてきた。

「あっ、社長!」
啓太の傍に居た社員が背後の声の主を見てそう小さく叫んだ。啓太も同じように振り向いた。

「和希!!!じゃなくて、社長」
和希の顔を見ると啓太はニッコリと笑顔になった。
和希も表情が解れて笑みが出る。啓太の傍に来るとそっとうれしそうに頭を撫でた。

「いいよ。和希で」
「だめです。ちゃんとけじめつけなくちゃ」
「啓太なら、どう呼ばれてもいいけどな。何だったら、昔みたいに『和兄』って呼ぶ??」
そんな本気かどうかわからないことを真顔で言うとそっと啓太の首筋に手を伸ばした。

「それより、啓太、またネクタイ歪んでる。こっち向いて、ちゃんと直すから」
「もういいよ。何時までも子供みたいに」
和希の触れた、少し冷たい指先に啓太は首を竦めた。

「子供みたいじゃなくて、お前は何時までもお子ちゃまだよ。目が離せないっていうか」
はい出来上がり!と、和希はネクタイを綺麗に結び直して、啓太のスーツの襟をポンポンと叩いた。

「それより、昨日のサンドイッチ、サンキューな。美味かった」
「本当に?」
「うん、もうばっちり」
「良かったーー」
嬉しそうに笑う啓太の顔をみて和希もにんまりと笑う。

そんな二人の様子に、営業部のみんなは、顔を見合わせてため息を吐いた。




伊藤啓太
鈴菱商事営業2課所属

役職はまだないが営業成績常にトップ
社内では、知らぬものの居ない有名人


入社式のその日から
毎日、社長直々に営業部へ顔を出して、啓太のご機嫌を伺っていく。

大体、この本社ビルだけで社員数2000人近い大企業のトップと
一般社員が実際に直接話をする機会なんか早々あるものではない。
退職するまで一度も社長と口を利いたことなどないという社員が大多数。
それなのに、一介の新入社員に会うためだけ、社長が営業部に日参することなんか
ありえないことで、それをさせてしまう伊藤啓太という人物は、どんな人物なんだと、最初の頃はその噂で持ちきりだった。

しかし、その当人はいたって、普通。
強いて言うならば、男性としては少し細身の華奢な体。笑うとえくぼの出る愛らしい容貌
茶色に軽く跳ねた柔らかい髪に色素の薄い角度によっては青く見える瞳

何よりもその性格の素直さ純粋さ、悪く言えばお人よし
誰にでも好かれる可愛いやつ・・・・というのが大方の意見


会えば誰もが好きになるといえばいいのだろうか。
おかげで、入社ひと月で社内中のアイドルとなってしまっていた。

もちろん、本人はそんなことは知らずにいたってマイペース。
しかし、その魅力は社内だけでなく、取引先にも認知されるのにそうも時間はかからなかった。

纏まらない契約も、伊藤が行けば何とかなる!と不文律があるほどで
社長自らが出向いてもまとまらなかった大プロジェクトを難なく纏めてしまったのが
入社3ヶ月目だというのだから、これも一種の能力だろうということで上層部では認識されていた。


伊藤啓太は、強運の持ち主だと。


しかし、決して、運だけではないということは、入社試験の成績でもわかる。
名門ベルリバティの卒業生だということもみんなに認知されていたし、
そのBL学園当時から啓太を知るものには、啓太の努力とともに、
影になり日なたになり、つき従う銀の髪の騎士の存在もその才能を開花させている一つだと知れ渡っていた。


その銀の髪のナイトは、彼がこの会社に就職することには難色を示していたけれど…。





啓太の就職が決まった夜、

「伊藤くん、どうしても就職するんですか?」
珍しく不満気な顔で、七条は出来ればやめて欲しいと口にした。
啓太はそんな七条を不思議そうな顔で見上げた。

「七条さんは俺が働くの嫌ですか?」
「嫌というか・・・・。君には家庭に入ってもらいたいと思っています」
「でも、俺、男ですよ」
「確かにそうですが、僕には君に不自由させないだけの力があると思うのですが」

鈴菱の研究所へ勤めてはいるけれど、本来は西園寺の経営するいくつかの会社の役員が主で、別段、経済的に困っているわけではない。
それとは別に、株やその他の投資もやっていて啓太一人を養うにはあまりあるほどの収入はある。
何より、自分が仕事から戻った時に明かりの灯った部屋でお帰りなさいと啓太に、声をかけてほしい七条は願っていた。

「そんな問題じゃなくて、俺、自分で何が出来るか試して見たいんです」
「伊藤くん」
「守られてるだけじゃなくて、自分で。自分の足で歩いてみたい。七条さんの隣に相応しい人間になりたい」

そう言われてしまえば返す言葉もない。
啓太がこんなにも真っ直ぐに自分を見てくれていることに、今更ながら気付かされる。
愛されているという実感が心の中にじわじわと溢れて、七条は胸がいっぱいになった。

啓太を抱き寄せるとその耳元に囁いた。
「君って人は、どれほど僕をつけあがらせれば済むんですか!」


結局、啓太の就職はそのまま決まった。





「あっ、それと忘れてました。中嶋さんから、お電話が入ってました」
後輩は、忘れてすみませんと頭を下げている。
啓太は、デスクから顔を上げて、少し驚いた顔をした。

「中嶋さん?」
「はい。今日11時にこっちへ来るって」

「えええ、もう10時50分じゃ、中嶋さん昔から時間はきっちりしてる人なんだよ」
自分の腕時計をちらりと見ると啓太は慌てた声をあげた。
あの人は昔から時間にきっちりしてる人だったからな…と頭にそんなことが過ぎる。


「すみません」
そんな慌てた様子の啓太を見て、後輩は済まなさそうに俯いてしまった。
それを見遣ると啓太は笑顔で、大丈夫だからにこりと笑った。。

「ううん。いい!気にしないで!
こっちこそごめん、不安になった???ほんと、大丈夫だから」




「啓太」
その時、聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。振り向くと、見覚えのある深い蒼味を帯びた瞳。
学生時代から、綺麗な人だと思っていたが、こうしてスーツ姿になると
それはある意味男の色気のようなものを醸し出して、見慣れたその姿も、しばし、ほーーと見惚れてしまう。
啓太は、声を出すのも忘れて中嶋をみつめていた。

「なんだ、惚れたか?」
「な・・中嶋さん!」
啓太は我にかえる。

「くっくっ、相変わらずいい顔をするな。
今日は何が何でも俺の言うことを聞いてもらうぞ」
そう言って、啓太の頬をするりと撫でる。

「何、言ってるですか!」
冗談だろうということはわかってはいるが、啓太はドキッとして耳まで赤くなってしまう。
そんな啓太を見て、中嶋はニヤリと口角だけ上げて笑った。

「何って、この間の契約のことだが」
「あっ」
「ふっ、何か違うことでも考えていたのか。相変わらず淫乱なやつだな」
くっと笑いながら、啓太の手を掴んで引っぱるとその腕の中に、すっぽりと収めて耳元に囁く。

「あんな犬と一緒に居ないで俺のところへ来い。犬はお前を満足させてくれないだろう?」
「犬って・・・。七条さんはそんなことないですよ!」
耳元に触れる中嶋の唇に擽ったそうに首を竦めて、放して下さいと小さな声で言った。

「ほーーー口答えをするのか」
にやっと笑うと、わざと耳に息を吹きかけて

「啓太・・・」
「なんですか?」
「お仕置きだな」
「な・・なっ・・・!」

「言うことを聞かないやつにはお仕置きだろ」

首筋にちりっと軽い痛みが走る。そこに赤い証が残る。
「や・・いやだ!」
啓太は逃れようと暴れるが、力で叶うわけもない。



「おい!ヒデ!もうそれくらいで勘弁してやれ!」
不意に誰かが、啓太の腕を引っぱり、頭上から声がかかった。

「あっ、王様!」
見上げるとそこには、丹羽哲也の姿。BL学園時代から変らず、爽やか笑顔で啓太を見下ろしていた。

「おっ!啓太!元気か!」
そう言って、昔のように啓太の頭をワシワシと撫でた。この人はいつでもこうだったなと啓太はうふふと笑う。

「髪がくしゃくしゃになります。止めてくださいよ」
「がはは、まぁ固いこというなよ」
笑い方も全然変らないや・・・、啓太は昔と変らず頼りがいのあるその人を見上げた。


「テッちゃん」
そんな二人を、つまらなさそうに見ていた中嶋が口を開いた。中嶋をちらりと見ると丹羽は思い出したように声を上げた。

「おぅ!そうだった。啓太、遠藤はいるか?」
「和希・・・じゃなくて、社長ですね。さっきまで居たんですけど、ちょっと待ってくださいね」

啓太は近く似合った社内電話で社長室へ連絡を入れる。数分やり取りした後、受話器を置くとニッコリと笑った。


「お会いするそうです。社長室へどうぞ!」
二人にそう告げて、遠巻きに見ていた同僚たちに声を掛けた。
「誰かこちらのお二人を社長室まで案内してあげて!」
そんな啓太を制して中嶋は口を開いた。
「いやいい、場所は知っている。おい、テッちゃん」
「ん、了解。じゃーな、啓太またな。今度一緒に飯でも食おう!」
「はい!」
「啓太、犬に飽きたらいつでも来い」
「あはは、中嶋さん・・・」

去っていく二人の背中を見ながら

「相変わらずだよな、あの二人」
そう呟く啓太の傍に、さっきの後輩がやってきて、驚いたように声を上げた。

「すごいですねーー伊藤先輩って」
「何が??」
「あのお二人と仲いいじゃないですか!」
そういうと、ふぅとため息を吐いた。

「あはは、仲がいいというか。だって先輩だもの」
王様は、ともかくとして、中嶋さんは、仲がいいというかなんというか。そんなことを啓太が考えていると
ふと「あの鬼畜眼鏡さんには気をつけるんですよ」と言う柔らかな恋人の声が耳元で、聴こえたような気がした。



「あっ、そうか、伊藤先輩もBL学園だったんですよね」
「うん、あのお二人は俺が一年の時の学生会の会長と副会長で色々とお世話になったんだ」

「そうなんですか!
あの二人、この間も夜の経済ニュースで、特集されてましたよね。
たった数年でベンチャー企業を一流企業にした経済界の若いエリート・ホープだって」
思い出したような顔でその後輩は言った。

「えっ、そうなの??」
「伊藤先輩は見ないんですか?そういうの?」
「いや、見ないというか…普段は良く見てるるもりなんだけどね」
(見れないと云うか。・・・中嶋さんの出てるテレビなんて、あの人の前では絶対見れないよな…。)
苦笑を洩らす啓太を不思議そうな顔で見ながら、後輩は話をつづけた。

「うちの社長もすごいけどあの二人は、一から起業しての今の地位ですもんね。ほんとすごいです」
憧れてますと後輩は呟く。

そりゃ、そうだよな。学園時代からあの才能行動力どれをとっても一流だったもの。
昔のことが色々と思い出されて啓太はくすりと笑みをこぼした。。


「すごいといえば、うちの薬品部門もすごい発見したそうですよね。
何でもノーベル賞ものじゃないかって、業界ではもっぱらの評判だって!研究所には、確か伊藤先輩のルームメイトさんが居ましたよね」

「えっ、あっ……。うん」

思わぬ言葉に啓太はどきりとした。

ルームメイト……か。

啓太と七条が恋人同士であるということは、仲間内、特にベルリバティからの知り合いの間では周知の事実。
しかし、これがそれぞれの会社や研究所の中となると話が違ってくる。

男同士だもんな……。

これが男女なら、恋人だとか素直に受け入れてもらえるんだろうな。
七条さんは隠さなくてもいいって言ってくれるけど、
でも、やっぱり、……さ。臣さんに迷惑かけないようにしなくちゃね……。

わかってはいても、なんだかふと心が切なくなる。
最近、よくそんな気持ちになるんだよな…と啓太は心の中でため息をついた。
これから先、このままでいいのだろうかという漠然とした不安が心を縛って苦しくなる。
そんな考え事をしていた啓太に後輩は声を掛けた。

「あっ、そうだ」
「ん??なに?」

「医療部からこの間の健康診断の結果取りに来てくださいって
連絡ありましたよ!」

「あっ、ありがとう!」啓太は時間を確かめると、

「じゃ、ちょっと行って来るね。直ぐ戻るから、何かあったら連絡入れて」と言うと医療部へ向かった。



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