ピピピ
ピピピ

ベッドサイドの目障りな電子音を止めて、文字盤に眼を遣る。

AM9:00


ふと見上げた窓からはカーテン越しの陽光が射しこんで朝の気配を告げていた。
きらりと届く光が、七条の銀の髪に纏わりつくように注ぐ。その柔らかな陽射しはゆったりとした休日の始まりに相応しいなと感じられた。
ここのところ、西園寺の研究があらゆる方面で大きく取り上げられてからは、やたら忙しくて啓太と二人過ごす時間もろくろくなかった。
しかし、それもようやく一段落。夕べは、珍しく早く戻った啓太と夕食を共にすることが出来たし、その温もりを感じることも出来た。
おかげで今日は頗るご機嫌だ。

「さぁ、朝食でも用意しましょうか」
傍らで眠る愛し子の、その額の柔毛をそっと指先で梳いて眠りを妨げないように温もりを落とした。

…今日は、二人とも休みですからね。

ゆったりと朝食でもとって、昼からは啓太が観たがっていた映画にでも行こうか、
その後、どこか落ちついたレストランで食事でもして・・などと考えながら、七条はキッチンへと向かった。


綺麗に洗ったレタスをちぎって、ボールに放り込む。そして、良く冷えたトマトを刻んでのせる。
フライパンの上ではこんがりと程よく焼けた厚切りのベーコンがいい香りを漂わせている。
トースターに薄切りの食パンを放り込んで、バターと苺のジャムを冷蔵庫から取り出した。
大きく真っ赤な苺の絵の書いてあるそれは、啓太のお気に入り。
『俺、これだけ舐めてても幸せです』と、眩しいほどに嬉しそう笑顔を思い出して七条はクスリと笑った。
あの後、僕が指先で掬ったジャムを舐めてくださいってお願いしたら、恥ずかしそうに舐めたんでしたね・・・、
その時の耳まで赤くしていた啓太を思い出して、また笑みが零れた。

半熟のスクランブルエッグを皿ににとりわけ、ジューサーに皮を剥いたオレンジを放り込んだ。
普段、料理は啓太がしてくれることが多いが、七条も決してこういうことが嫌いではない。
まして、これを食べる時の啓太の嬉しそうな表情を想っては、その手は軽やかに動いていた。
暫くするとコンロの上、ケトルがピーーーと甲高い悲鳴をあげた。

紅茶を入れるのは一家言ある。口の超えたあの幼馴染を喜ばせる為に習熟した入れ方。
あの当時は、こうして誰か違う人のために紅茶を入れるなどということは想像もしていなかった。
まして、それが何よりも変えがたく愛しいと思う人のためになるなどということは。
ケトルをコンロから外し、温めたカップとポット。
いつものように、昔からの習慣どおりにゴールデンルールで紅茶を入れてテーブルの上に置くと自然と笑みが毀れる。
そして、背後に愛しい気配を感じて七条は振り向いた。

「おはようございます」
「おはようございます、啓太くん」
ふぁーーと大きな欠伸をしながら啓太はぺこりと頭を下げた。
まだ目覚め切れていないのか、どことなくぼんやりとした顔でキッチンの椅子に座る。
薄緑色のカットソーに、シナモン色のズボン。シャツのボタンが左右一つずつずれて留められいるのはご愛嬌だ。
七条は、ふふと笑いながら手を伸ばして啓太のシャツのボタンに手をかけた。

「なっ?なに?」
「うふふ。ボタンがずれてますよ」
「えっ? あっ、すみません!」
七条の言葉に、はじめてボタンを掛け違えていたことに気がつき、少し寝ぼけ眼の啓太は顔を赤くして俯いた。
そんな仕草さえも愛しいと思える。最後までボタンを留めてやると七条はニッコリと笑った。
「いえ、まだ眠いのでしょう?夕べ無理をさせたのは僕ですから」
七条のその言葉に啓太は真っ赤になった。


*


「わーーすごいですね」
テーブルの上に眼をやると、息を想いっきり吸い込んで香りを楽しむと「美味しそう!」と一言、感嘆の声を上げた。
啓太のその様子に七条も嬉しそうに目を細める。
「ここのところ忙しくてなかなか朝食も一緒に取ることができませんでしたからね
今日は休日ですし。ゆっくり食べながら午後の予定でも立てましょう」
「はい!」
元気良く返事をして、啓太は目の前のスクランブルエッグを一口、ぱくり。
「んーーーー!美味しいです!」
「そうですか。お口に合ってよかった」
啓太の言葉に紅茶に口をつけていた七条が嬉しそうに返す。
そして、二人、顔を見合わせてニッコリと笑った。

啓太のカップに温めた牛乳を注ぎながら七条は、口を開いた。
「午後は、君の観たがっていた映画にでも行きましょうか?」
先週、予告編を見て行きたいなとポツリと洩らしていたのを聞き逃すわけがない。
啓太は、カップを受け取りながら、嬉しそうに眼を輝かせた。

「あれ、見たかったんです!」
「じゃ・・・」七条の返事を待たずに、啓太は何かを思い出したように小さく声を上げた。
「あっ・・・」
「どうしましたか?」
「あの・・」
カレンダーをちらりとみて啓太は目を伏せた。

「はい。何か予定でも?」
「ン・・・予定というか」
少し言い澱んでから、啓太は先週の篠宮とした約束のことを話した。


「篠宮さんが来るのですか?」
小さくため息を吐きながら七条が呟くと、啓太はすみません俯いた。
そんな啓太の申し訳なさそうな様子を気遣って、七条は笑顔で答えた。

「いえ、良いんですよ。君の体の方が心配ですから」
「おれ、やっぱり、断ります!七条さんと二人だけで居たいし!!」
そう言って、啓太が手元にあった携帯に手を伸ばした時、玄関のチャイムが鳴った。





「おはよう。伊藤」
玄関先に立つその人を見て、七条は啓太にわからないように、また、ため息をついた。

「篠宮さん、おはようございます。お早いですね」
「なんだ。七条もいたのか」
篠宮は、ちらりと見てそう言う。

「僕の家ですから」
そうにこやかに笑う七条に篠宮はそうだったなと呟いた。
「はい。僕と啓太の家です」
念を押すように言うと、篠宮が少し眉を顰めたのを七条は見逃さない。
いわゆる牽制をこめて口にした言葉なのだから、理解してもらわない困ると七条は心の中で独白していた。

BL学園時代、面倒見の良い寮長だった彼が、それ以上の意味で啓太を思っていることに、気づかないわけがない。
…堅物だと思っていたんですけどね…、案外、彼も普通の男だったというわけですか…。
僕の想い人は、そんな堅物の心でさえも虜にするほど可愛い人だってことでしょうか…ね…。
そんなことを考えながら、目の前の諦めの悪いライバルを七条は胡散臭い笑顔で出迎えた。

リビングへと通された篠宮の目にはキッチンのテーブルの上に置かれた朝食が目に入った。
おやっ?と呟きながらそれをじっくりと検分するように眺めると啓太の方を振り返った。

「ちゃんと仕度してるんじゃないか」
「はい、七条さんが全部してくれて」
篠宮の言葉に啓太が嬉しそうに答えた。


「しかし」
もう一度食卓を見回して
「日本人なら、朝は米の飯を食べないと力がでないぞ」
「そうですか?俺パン好きですよ」
「お前は少し貧血気味だろう?しっかり食べないと今度は倒れてしまうかもしれない」

困った顔で見つめる啓太に篠宮はニッコリと笑みをくれてやる。
「よし、俺が作ってやろう」

そういうと持ってきた黒いバッグの中から、愛用のエプロンを取り出した。
その様子に啓太は慌てて大きくかぶりを振った。

「あ、でも、もう仕度出来てますし」
「しかし伊藤。しっかり食べないと貧血が治らないぞ」
眉を顰めて篠宮が言い返した。

啓太がそれに何か言おうと口を開いたその時


ピンポン


ドアチャイムの音が聞こえた。





「ハニーー!!!!!」
「成瀬さん、!抱きつくのは止めてください!」
騒々しい声が家の中に響き渡って、七条は眉根を寄せて、舌打ちをした。
その聞きなれた声も、七条に取っては、できればこの家の中では聴きたくはないもの。
どうして次から次に・・・と嘆息がこぼれた。

啓太に先導されて部屋に飛び込んできた金色に、七条は片眉だけ上げて、誰も聞かれないようなため息を吐いた。
学園時代、同級生だった彼はそのストレートな態度で啓太を追い掛け回していた。
『ハニー』そう呼ぶ彼を何度窘めたことだろう。

『伊藤くんは僕の恋人ですから、ハニーと呼ぶのは聞き捨てならないですね』
『でも、啓太は嫌がってないみたいだよ。七条』
無碍に出来ない啓太のお人好しさをいいことに、卒業するまで、彼はそう呼ぶことをやめなかったし、今もそう呼んでいる。

「いいだろ、お友達くんこそ、何でついてくるのさ」
「心配だからです」
啓太にぎゅうぎゅう抱きついて頬刷りをする成瀬を引き離すように和希がひっぺがした。
闖入者たちのおかげで静かな休日を過ごすはずだった部屋の中が
まるでポップコーン鍋の中のように一層にぎやかになった。


「おはようございます成瀬くん。そして、遠藤くん」
「おはよう、七条。居たの?」
さっきの篠宮と同じ問いに、「ここは僕と啓太の家ですから」

そうこうして騒いでいるといるとエプロン姿の篠宮がキッチンから出てきて一喝した。
「騒がしいぞ!」
腕を組んで、成瀬と和希の二人を睨みつけている。
そんな篠宮に悪びれる様子もなく成瀬は人懐こい笑みを浮かべた。

「篠宮さん来てたんですか」
「早いですね」
和希も、エプロン姿の篠宮に少し呆れ顔になる。



「あれ、朝ごはん?まだだった?」
テーブルの上に目を走らせて、和希が尋ねた。七条の用意してくれたそれはもうすっかり冷えてしまっている。
啓太は、少し目を伏せると小さな声で答えた。
「いやこれから」
「そうだ、俺が作ってやろうと思って」
篠宮の言葉に啓太が何か言いたげにしている様子をみて、和希が替わりに口を開いた。
「でも出来てるじゃないですか」
「七条さんが作ってくれたんだ」
うんうんと啓太も頷く。

しかし、食卓を見回していた成瀬が声を上げた。
「でも、もう覚めてるじゃないか。ハニー、こんな冷めた朝食味気ないよ。
ねぇ、僕と一緒に外に食べに行かない?とびきり美味しいブレックファーストやってるレストランがあるんだ」
そういうと啓太の腕を掴んでギュッと抱きしめた。

「成瀬さん!」
そんな成瀬の言葉に和希はきりっと睨みつけて、反対側の腕を引っぱった。そして啓太の顔を覗き込むようにすると
「啓太、俺のとこで食べよう。今から用意させるから」
和希の言葉に「和希まで、何いってるんだよ!」と啓太は抗議の声を上げた。
そんな啓太にお構いなく、和希はポケットから携帯を取り出すと秘書に朝食の支度を指示し始めた。


「いや、俺が作ってやるから」
「ハニー、君の好きなスイーツもあるんだよ。外に行こう!」
「啓太の好物のいちごも用意させたから」
そんな3人に挟まれて啓太は途方にくれて、アハハ・・・と力なく笑った。
そして、困ったような顔でちらりと七条を見た。
いつもなら、ここで助け舟を出してくれる。
この境地から救い出してくれる・・・少なからず啓太はそう思っていた。
しかし、さっきから、そんな様子を無言で眺めていた七条は口元を微かに歪めて冷たい一言だけ告げた。
「君が食べたいものをどうぞ」
突き放したような言葉が少し大人気ないとわかってはいるが、つい口から飛びだす。
断れない啓太の優しさを充分理解しているというのに。啓太には悪気など全然ないというのに。


七条の言葉に啓太は少し驚くと切ない顔をした。

大きく目を見開いて、啓太はもう一度七条を見た。
しかし、そんな啓太を無視するように七条は書斎にしている自室へと入ってしまった。
その背中を見送ると、啓太は力なく肩を落とした。そして、互いに言い争っていた三人の方を向きなおすと、
「あの、やっぱりいいです。これ食べますから。だから…。あの…。もう帰ってください。お願いします」
小さな弱々しい声だがそれは完全に三人を拒む言葉。
俯いて唇を噛みしめる啓太に、三人は我に帰って顔を見合わせた。

嵐のように騒がしかった三人がいなくなるとたちまち部屋は静寂に包まれた。

『すまない。伊藤。押しかけてしまって』
『ハニー、ごめんね。折角の休みだもんね。ゆっくりしたいよね』
『啓太。俺からもあやまってやろうか?七条さんに』
決して啓太を困らせるつもりではなかったのに結果的にこういうことになって三人は何度も謝って帰っていった。

静かになったキッチンで、啓太は、静かにテーブルについて、冷めた紅茶を口にした。
七条は、やはり、自室へ籠もって出てくる気配もない。

じっと見つめるカップの中には泣きそうな顔が映っていた。

「何でこんなことになったんだろう・・・」
楽しい休日になるはずだったのに、どこでボタンを掛け間違えたのだろう。
「やっぱり、俺のせいだよな」
最初に篠宮の申し出を断るべきだったのに、ずるずるとそれを受け入れた自分が悪い。
啓太は、深く息を吸い込むと長いため息をついた。


冷たくなったスクランブルエッグを一口放り込むと無理やり飲み込む。
お腹は空いてるはずなのに、それはまるで砂を噛むように味気ないもので、
「さっき食べた時は美味しかったのに…」
目の前に居ない人のことを思うと、我慢していた涙がはらはら零れてテーブルクロスに吸い込まれていった。



騒がしかった気配が消え静かになった部屋の中、
「みんなで食事にでも行ってしまったんでしょうね」ため息をつくと七条は部屋を後にした。

傷つけたくない人を傷つけた。
さっきの自分の言葉に切ない顔をした啓太のことを思うと胸が痛んだ。
あんな顔をさせるつもりでは無かったのに、どうしてこんなことになってしまうのだろうかと。
「全く、幾つになっても僕には余裕がないですね」
一人自嘲の笑みを零すとリビングに通じるドアを開けた。
そこに微かに人の吐息のようなものが聞こえたような気がした。
あるはずのない人の気配に、そっとキッチンを覗く向こうむきに座る華奢な背中が見えた。

冷めて固くなってしまったパンを小さく千切っては口に放り込む啓太の姿。
かしゃりとフォークが皿に当たって硬質な音を響かせている。
さっきからの気持ちを引きずったまま、七条は声を掛けた

「無理して食べなくてもいいんですよ」

その声に、びくっと肩を震わせて振り向いた啓太の瞳は涙の雫の満たされていた。
「ごめんなさい。臣さん・・・。俺・・・」

…泣きながら、冷めた食事を口にしていた君。
…なんてことを、僕は言ってしまったんだろう。
…こんなにも愛しく想う君を、傷つけた・・・。

「伊藤くん。僕が…。僕が悪いんです」

そう言うと七条は啓太をその腕の中に閉じ込めた。

…僕が大人げない
…君の事を良くわかってるはずなのに
…優しい君が彼らを邪険になど出来るはずがないということを
…わかっているのに
…わかっていたのに


「ごめんなさい。ごめんなさい」
腕の中で繰り返す啓太の言葉を呑み込む様に奪い取るように、温もりを落とす。
謝る言葉など聞きたくはなかった。それは言わせてはいけない言葉なのだから。
何度も何度も繰り返して、キスをした。そして、それは微かに紅茶の味のするキスだった。


すみませんのキス
ごめんなさいのキス
赦してくださいのキス
大好きのキス

大事な人を泣かせた僕を赦して
大事な貴方を困らせた俺を赦して

そして
愛してますのキス


*


「折角の朝食が台無しになってしまいましたね」
七条の胸に頭を凭せ掛けてその腕の中で啓太が消え入りそうな声で呟いた。
その言葉に、七条は、ふふと微笑を浮かべた。
「いえ、良いんですよ。おかげで、またあらためて君のことが大好きなんだなって言うことに
気がつきましたから、彼らには感謝しなくてはいけませんね」
そう囁くとそっと額に温もりを落とす。
「でも・・・」それを瞳を閉じて受けながら啓太が何かを言いかけると
七条はその言葉を抱き取るようにそっとその唇に人差し指を押し当てて圧し止めた。

「啓太くん、こうしましょう。今から、外で少し遅いブランチにしましょう。
そして、君の見たがってた映画を観ましょう。君が食べたがっていたケーキ屋さんへ行って・・・」
言葉を続ける七条の首に抱きつくと啓太がその耳元に、チュッと音を立てて可愛いキスをした。
少し驚いて、見返した七条に啓太がニッコリと笑った。

「臣さん、俺、やっぱり、あれが食べたいです」
そういうとキッチンのテーブルに瞳を遣る。
「でも、もう冷えてしまってますよ」
七条のその言葉に、啓太は頭をブンブンと振った。

「温めれば食べられます。
それに、俺、外に出るよりもずっとこうしていたいです」
啓太はそういうと七条の胸に顔を寄せて摺り寄せて、ニッコリと白い歯を覗かせた。

「今日は一日こうしていたいです」
「啓太君」
「だめですか?」
「だめな訳ないでしょう。
君と二人いられるならそこが僕の居場所ですからね」
そして、優しくその髪に温もりを落とした。

「君には叶いません。いつでも僕の欲しい言葉をくれる」
「臣さん。そんなこと・・・・。臣さんこそ、いつもこうして抱きしめてくれる」
温かい・・・です・・と、啓太は小さな声でえくぼを作った。

そして二人、顔を見合わせるともう一度優しいキスをした。



「それでは、新しく紅茶を入れなおしましょうか?」
「はい!」







next

検索ページから来た方は、サイトTOPへ